手書きの字形に現れる画数と正誤判断

 

 漢字の画数は、一筆で書ける点画を一画と数えて、決められる。その画数どおりに漢字を書くのが原則である。(常用漢字表には画数が示されていない。)しかし現行の漢字辞典には、一筆で書ける点画を一画とするという決まりに、いくつか合わないところがある。例えば、廴(えんにょう)は二画で書くのに、日本の辞書では三画にしている。(現代中国で最も規範的な字典とされる『新華字典』では、廴は二画。)廴が三画であれば四画になるはずの及は三画、三画になるはずの乃(乃は常用漢字ではないが、秀などの構成要素となっている)は二画である。他にも阝(こざとへん・おおざと)も二画で書くのに、日本の辞典では三画(『新華字典』では二画)にしている。『字彙』(梅膺祚 1615年)の凡例に、卩(ふしづくり)と区別するために阝を三画に数えたという旨が書かれているように、阝は二画で書くものであるのに、便宜的に三画と数えるのである。その『字彙』の画数が『康煕字典』(1716年)に引き継がれ、『康煕字典』を基準にした日本の漢字辞典では阝を三画にしている。画数どおりに書くのが原則といっても画数にはこういう問題がある。

 もう一つ、常用漢字表の(付)字体についての解説・第2に「改定常用漢字表では、個々の漢字の字体(文字の骨組み)を、明朝体のうちの一種を例に用いて示した。このことは、これによって筆写の楷書における書き方の習慣を改めようとするものではない」とあるが、その改めようとするものではない「筆写の楷書における書き方の習慣」を画数との関連でどう考えるかという問題がある。

 指針では第3章のQ51で「牙」、Q52で「衷」、Q53で「柿(かき)」と「杮(こけら)」について説明している。Q54では「2画に見えても1画とみなす」印刷文字におけるデザイン上の表現と「离」について説明している。それらの説明と指針の「字形比較表」に示されている字形を基に、問題となる漢字を取り上げて説明する。


矛盾のない画数を定めたとしても、それで矛盾が全てなくなるわけではない。そうではあっても、矛盾ができるだけ少ない方がいいは当たり前のことである。小学生向けの漢字辞典にはわざわざ廴や阝を三画で書く筆順が示されていて、このままに放置していてはいけない状況がある。国が先導して矛盾のない画数を定めなければならない。ぜひとも今後の常用漢字表の改訂の際に、矛盾のない画数を明示してほしい。中国にできて、日本にできないことはあるまい。中国の画数の方が矛盾がない。



辞書によって画数が異なるのはとても不都合である。こういう学問的というよりも、便宜的といえる問題については、国が指導的役割を果たして、統一していくべきである。


ここまでの問題は、画数を適切なものに定めることと、「デザイン差」をなくすことで解決できる。この程度のことなら、国が方向性を示せばできることではないだろうか。現状がこうだから、それを改めようとすると少し問題が起きる。だから現状を追認する。そういう考えでは改善しない。そもそもこの指針は現状の誤りを変えようとして出されたものである。それならばもっと積極的な提言があってもいいはずであろう。整合性のとれたものにするために、国が指導していくべきである。



 ここまでの長い説明を読んで、たかが漢字の採点なのに、なんて面倒なんだ、と思った方もいるでしょう。しかし、次のことさえ肝に銘じておけばほぼ大丈夫です。それは、漢字が意思を伝達する道具に過ぎない、ということです。だから書かれている字がこの漢字だと分かるなら、意思は伝わるので、それでほぼ〇なのです。この根本的なことが忘れられていることから漢字の正誤・採点の問題が起こるのです。それでは漢字が意思を伝達する道具であるということが、なぜ忘れられてしまうのでしょう。それは字に上手下手、きれいな字・きたない字があるからだと私は考えています。書聖・王羲之をはじめ、初唐三大家、顔真卿。日本では弘法大師・空海を代表とする三筆、三蹟と言われるような能筆が有名です。字は下手より上手の方がいいに決まっていますが、扌(てへん)ははねた方がバランスがよくきれいな字に見える、(活字を見慣れた現代人には)天の上の横画が長い方がきれいな字に見えるとなり、その「きれい」が、扌ははねなければ間違い、天は上の横画が長くないと誤りとなって漢字の正誤と混同され、上手下手があるために漢字が意思を伝達するための道具として以外の意味を持つことになってしまうのです。きたな過ぎれば正誤の問題にかかわってもきますが、あなたの字はきれいでないから✖と言われたら納得できないでしょう。それに似たことが漢字の採点で行われていると考えれば、現状に近いと思います。

 ここまで教員の皆さんには少々耳が痛いことが書いてあったかもしれません。それは私が教員の最も大切なことは正しいことを教えることだと思っているからで、どうしても教員には厳しくなってしまうのです。現在、学校教育ではアクティブラーニングが喧伝されています。そういう指導法には流行りがあるでしょう。しかし、学校が正しいことを教えるところである、ということに流行り廃りはありません。不変のことです。その一番大切で不変のことが、軽視されていると感じています。分かっていないのに分かったつもりになって、間違ったことを教えている。漢字はその一例です。私は新潟県の高校で三十年以上教えてきました。新潟県では毎年秋に全ての高校から国語の教員が一名ずつ集まる研修会があります。十年ほど前になりますが、その研修会で三校の実践が発表されました。何とその三校のうち二校の発表の中に、生徒に間違ったことを教えているところがあったのです。それは古文の授業実践でしたが、教員が基本的なことを分かっていないのです。もちろん教員に間違ったことを教えているという自覚はないでしょう。県教委の指導主事が授業を見たうえで発表させているのですから、指導主事も分かっていないのです。また国語の研修会の案内文に「(研修会に)ご参加いただきますようお願い申し上げます」とか、もっとひどいと「ご参加いただけますようお願い申し上げます」と書いてあったりします。研修会では国語部会の会長が、「会場をご準備していただきありがとうございました」などと言っています。とても国語の教員とは思われません。どれほど彼らは授業の中で間違ったことを教えてきたのだろう、と考えてしまいます。テストにもひどいものがあります。問題自体が成り立たない(その問いに答えようがない)ものもありますし、答えが間違っているものもあります。ある教員がしたり顔で、「生徒はちょっと難しい問題を出すと全くできない」と言っていたので、その現代文のテスト問題を見てみると、問題が間違いだらけなのです。その定期テストは平均点が30点台だったということですが、そういう点を取る生徒の方が、テストを作成した教員よりよほど正しく文章を理解しているのです。そんなテストで生徒は学力を評価されるのですから、大問題です。機会ができればその問題を公開したいと思っています。

 もっともっと皆さん勉強しましょう。しかし、今の学校では教員の勉強する機会が奪われています。新潟県の高校では国語に関する話(私が国語の教員だったので国語を例にします)を大学の先生から聞ける機会は、現在は年にたった一回だけです。以前は教育センターで二日間の教科研修が年に二回ありました。田舎の教員が大学の先生から最新の知識を学べる貴重な機会で、私は毎年参加していました。その研修は廃止され、今はありません。その他にも年に三回、多い年は四回ほど大学の先生の話を聴ける機会がありました。今は一回だけです。その一回もなかなか参加しにくいのです。それは出張した日の授業をほとんど別の日に振り替えなければならなくなっているからです。出張から帰ってくると、授業が四時間、五時間の日が続くことになります。そう考えると気が重くなってしまいます。生徒に自習をさせることはよくないことかもしれませんが、教員が研修会に参加して、そこで得たものを授業に生かすことができれば、自習だった授業時間など十分に取り戻せます。長い目で見れば必ずいい結果に結びつきます。教員には勉強する機会、自分の学力を伸ばす機会が必要です。教員がいつも勉強していなければ、正しいことを教えることなど絶対にできません。教員には教職を辞するその時まで勉強が不可欠なのです。このような考えが教員に共有され、学校がもっとアカデミックで自由な、そして働き甲斐のある職場になってほしいと思います。

 最後に、教員の方にも教員でない方にも一言。勉強すること、研究することは実に楽しいことです。さあ、一緒に勉強していきましょう。