採点する者が必ず持たなければならない共通認識

 

 なぜ漢字には、本来は問題にしなくてよい漢字の形状における細部の差異が正誤の基準とされたりする(第1章・1)ことが起こるかについては、漢字が表意文字であることに起因することを他の箇所で説明した。

 漢字は一字一字について、完全な正誤基準を示すことは不可能である。(その理由は後で説明する。)示せるのは正誤を判断するポイントであり、逆に言うと正誤を判断するポイントにしてはならないところである。例えば指針では、とめ・はね について正誤を判断するポイントとしてはならないところを第2章・4・⑸で示しているが、とめ・はね が正誤を判断するポイントになる漢字としては、「干」と「于」など例外を除けば、いずれの漢字についても、はねるか、とめるかは、字体の違いに及ぶとまでは言えません(Q72)、と干と于を挙げているだけである。「干」と「于」などと「など」を付けているからには他にもあるということなのだろうが、その漢字を示していない。こういうところに指針の物足りなさがある。

 漢字一字一字について完全な正誤基準を示せないなら、どうしたら正誤基準を包括的なものにできるのかと言えば、採点する者全員が採点する際にどの漢字にも当てはまる認識を共有すればよいのである。そこで全員が共有しなければならない認識(共通認識)について述べる。

採点に個人差が出ることもあり得るとすると、それはだめだと考える人もいるだろう。できる限り個人差が出ないようにしなければならないが、実際には正しく採点すればほとんど差が出ることはない。なぜなら、例に挙げた「一」を極端に斜めに書いたり反った字を書いたりする人はほとんどいないので、採点に迷うことはめったにないからである。差が出ることは杞憂に過ぎない。

今までは「木」の書き方を、「縦画をとめて書いて、次に左のはらいだよ」、などと教えていたのだろうが、今後は「縦画を書いたら次は左のはらいだよ」と教えればそれでいいのである。「縦画はとめるの?はねるの?先生」と聞かれたら、「とめ・はねは気にしなくていいよ。どちらでもいいんだよ」と答える。正誤のポイントになるところだけ注意して、しっかり教えればよい。

私は高校の教員を30年以上やっていた。黒板にチョークで漢字を書くと、意識してつけようとしない限りほとんどはね跡はつかない。硬い黒板に硬質のチョークで書くからである。鉛筆やボールペンで紙に書いた方がまだはね跡がつきやすい。それは紙が黒板より柔らかいからである。漢字を何に何を使って書くか、それで字形は変わってくる。我々は常日頃そんなことは当たり前と思っているのに、どうして活字の字形にこだわってしまうのか。まっさらな目でもう一度漢字を見直してみたいものである。

共通認識5は言わずもがなのことであるが、「採点する者の個人差が出ることもあり得る」というと、どこでも自分がそう思うなら正誤を判断するポイントにしてもいいんだ、と勘違いする者がいそうだと考え、念のために共通認識に入れた。共通認識2も共通認識としなくてもよかったのかもしれないが、指針の考えが余りに足りないので、見過ごせずに共通認識とした。指導法に固執して正誤の基準の方を変えるとは、本末転倒である。変えるべきは指導法の方であろう。私が本当に言いたかった共通認識は1、3、4である。この三つの認識を共有することが、正しい採点をする鍵である。


必ずはね跡をつけなければならない漢字

 

指針では第2章・4・⑸のア、イで「終筆をはねて書くことも、とめて書くこともあるもの」(終筆のとめはねを正誤を判断するポイントにしてはならないもの)の例を示している。しかし、必ずはねなければならない漢字(はね跡がなければ誤りとなる漢字)としては、Q72に「干」と「于」などの例外を除けば、いずれの漢字についても、はねるか、とめるかは、字体の違いに及ぶとまでは言えません、と于を挙げるだけである。だが「干」と「于」などと「など」をつけているから、他にもあることを示唆してはいる。

とめ、はねがよく問題になり、それにこだわってきた教員が多くいたが、共通認識3と4から簡単に正しい答えが導き出される。宇・芋・越の三字だけ注意すればいいのである。これなら誰でも覚えられると思う。


点画が交わるように書くことも、

          交わらないように書くこともある漢字

 

指針では第2章・4・⑹・アで「点画が交わるように書くことも、交わらないように書くこともあるもの」を例示し、Q43で説明しているが、このことについて私の考えを述べる。

文部省が『総合当用漢字表(増訂版)」で示した基準は、現在の常用漢字表には受け継がれていないと考えられる。それは常用漢字表の(付)字体についての解説 にも指針にも、このことが全く触れられていないからである。「事」を交わらないで書いてよいとすると、「妻」や「唐」も交わらないで書いてよいことになる。「君」だってそうではないか、ということになって収拾がつかなくなる。また旧字体については確かに誤字ではないが、そもそも教員側に旧字体についての知識がない。旧字体も現在の通用字体からみれば異体字である。旧字体で答えてもよいという基準が示されていない限り正答とすることはできない。

構成要素「耳」「匕」「辰」「長」「艮」「衣」「非」「癶」「尞」「兆」と「収」は筆の流れから交わることもある、というだけのことである。構成要素「耂」を持つ字は、「耂」の下のスペースが斜画「ノ」のために狭いので、書くときにどうしても一部が接してしまいがちになる、ということである。明朝体が交わる字形になっているのは、明朝体は四角全体を使ってきっちり字を書き込もうとするデザインなので、バランス上どうしても一部が交わる字形になってしまう、ということである。いずれも細部にこだわる必要など全くない。

田・由・甲・申は交わり(突き出し)で別字になる。さらに似たような毌・毋という字まである。刀と力、矢と失、午と牛も交わりで別字になる。いやになるほど細かな違いである。自分もどうやって覚えたのか、不思議になるくらいだ。細かな違いを覚えるのは大変だが、漢字にはまた良さもある。一字一字よく見て、字体を頭に叩き込もう。